時宗の教え
仏の教えとは何か。お念仏とは何か。
ここでは当山33世河野正雄師が、仏教や時宗のお念仏について、昭和62年にまとめたものをご案内いたします。
そもそも仏教の本来の目的は何であるか。
先ずわれわれの世界を眺めてみると、楽しいことと言っても一時的な泡のようなもので、苦しいことばかりである。
その原因はといえば、われわれは自らの煩悩のために世間を正しく見ることができず、貪りの心が激しいから何事も思うようにならないと不平ばかり言ってしまう。
そして迷いの世界である地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道の間を生き変わり死に変わりして抜け出すことができない。これを六道輪廻という。そのような転々変化する迷いの世界(有為無常)を脱出して、変化のない永遠真実の覚りの世界(無為常住)に悟入することが仏教の目的である。
そのために六波羅蜜・八正道を行ずるのである。
六波羅蜜とは・・・
1布施(施しをすることによって物欲を離れる財施や法施等)
2持戒(戒律を守って身勝手な振舞いを慎む)
3忍辱(忍耐して困難にくじけぬ心を養う)
4精進(何事にも努力を重ねて怠惰の心に打ち勝つ)
5禅定(精進を集中して散漫にならぬように引き締める)
6智慧(悪知恵や偏見を棄てて、物事をありのままに把握し、真理を見極める力を磨く)
八正道とは・・・
1正見(正しく四諦の理を見る)
2正思(正しく四諦の理を思惟する)
3正語(正しく実のある言葉にて話す)
4正業(正しく清浄なる行動をする)
5正命(正しく清浄なる生活をする)
6正精進(涅槃に至る道を励む)
7正念(正道を憶念し邪念を遠ざける)
8正定(正しい禅定に入り心を鍛える)
ゆとりのある貴族や武士階級は、こういう修業をしたり、また仏像を造りお寺を建てたりして功徳を積んで加持祈祷を旨としていた。しかし一般庶民の間では、そのような余裕もなく、しかも戦乱相次ぐ我が国の社会情勢の中、生きるだけが精一杯であった。
そんな中、法然上人の他力浄土門、すなわち南無阿弥陀仏の六時名號を称えるだけで極楽浄土に往生できるという念仏の法門が提唱され、たちまち庶民の間に伝播した。さらにその法然上人のひ孫弟子の一遍上人が、一所に止住せず全国に遊行賦算し、庶民の中に融け込んで念佛勧進せられたので、念佛思想はいよいよ庶民の身近なものとなったのである。
然らばそのお念仏とはどんなものか。何故称名によって往生を得るのか、またどういう意味のものかについて説明してみよう。少し難しいので、簡単にはご理解頂けないと思うが、分からぬままにでも一応目を通して頂きたい。
さてお念仏といえば、通常には観念のお念仏のことであり、阿弥陀仏のおすがた、極楽のありさまを心に観るものであるが、浄土門では観念のできない衆生が称えるお念仏をいう。
沢山あるお経の中で浄土門が特に依り処とするのは三つの経典であり、その一つが大無量寿経である。そこには以下のことが記されている。
昔、世自在王如来という仏様が衆生を教化されていた。その説法を聞いた時の国王は、自分も衆生を救いたいと出家し、法蔵菩薩と名乗り、長い修行の末には仏となられた。それが阿弥陀仏である。また、阿弥陀仏になられる際、衆生を救い導き入れる仏国土として作られたのが極楽浄土である。
「真心から我が極楽国土に生まれたいと願うならば誰でも、たとえ十辺でもお念仏を称えれば、必ず極楽世界に往生できるようにする。もし往生できなかったならば私は仏の位に就かない」と誓われている。
阿弥陀仏は既に願も行も円満成就して真理を覚られ仏になられているのだから、衆生の往生も遥か昔に決まっているというわけである。
かくの如く、人々は称名念仏により極楽に往生できるのであるから、日々に六字名號を称えさせて頂くのである。また臨終には、正念にお念仏を申すことにより、過去に犯した一切の罪を無くして頂き、阿弥陀仏を始め、諸菩薩の来迎をこうむって、西方極楽世界に往生させて頂くことを心に誓うべきなのである。
このところを一遍上人はそのご法語に「既に念仏申すも仏の護念力なり、臨終正念なるも仏の加祐力なり、往生に於いては一切の功能、皆もって仏力、法力なり」と説いて、平素、南無阿弥陀仏を称えて心から仏の教えに従っておれば、阿弥陀様は臨終正念にして下さるし、臨終のお念仏も出して下さり、来迎して下さると示しておられる。
勿論何でも他力他力というて自分で何もしないのはどうだろうか。
それでも阿弥陀仏は救いとって下さるだろうけれども、阿弥陀様のお導きを有り難く思って、われわれ衆生もそれにお応えして称名怠りないように心掛けるべきである。
次に南無阿弥陀仏の意味について説明しよう。
南無は帰依・帰命と訳され、阿弥陀仏にすべてをお任せすることである。
阿弥陀とは法蔵菩薩が長い修行の末に悟りを開いて仏の位につかれたお名前であり、時間・空間の概念に余すところなく普遍した真実の意味を持つ。
仏とはその真実を見究め覚られた人の位を表す。
ここに真実は一つしかない。真実は無限の時間・空間(無始・無終、全宇宙隅から隅まで)の中に、すべて現象として現れているものであり、何一つとってみても真実でないものはない。
しかし、それが真実と見えないのは、凡夫には無明といって正しく見えない煩悩があるからである。ゆえに無明をなくして世の中を正しく見究めるために、阿弥陀様におすがりして、南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀様に融けこんで、阿弥陀様と一つのものになることである。(中略)
われわれ凡夫は生老病死・愛別離苦の苦しみ、求めても得られず、思い通りにならぬ悩み等々、苦悩は尽きることがない。その悩みを救って下さるのが阿弥陀様であり、われわれはただ称名すればよいのである。
六字名號を称えることによって、無始の昔から未来永劫まで、隅から隅まで照らして、余すところなき阿弥陀仏の胸の中にすっぽりと自分自身を捨て入れるのである。このことを具体的に説明するのが西方極楽浄土である。阿弥陀仏は現在も西方極楽浄土に居られて、何ものをも畏れぬ心を与え、願求するものを与え、安んじ慰め、西方浄土へ早く来いよと手を差し伸べておられる。
われわれは称名することによって救われて浄土に往生すると説かれるのである。ここに救われるとは苦悩から解放されることであり、往生とは苦の娑婆世界から楽のみあって苦のない西方浄土に往き生まれることである。
その浄土は経典には西方十万億浄土を過ぎた所にあると説かれている。しかし十万億浄土というのは凡夫の迷いの果ての深さを指したもので、迷いがなくなれば、現在いるここが浄土なのである。
そこには自我中心の欲望もなく、従って苦悩もなく、真実大自然の中に悠々とした心境になり、自己中心を離れて社会中心の考えに視野を拡げ、止悪作善、つまり悪を捨て善の行いが自ら守られるのである。
しかも善業そのものに喜びがあり、自ら快楽を得るばかりでなく、明朗な社会建設に役立つこととなるのである。
終わりにお念仏をどのような心構えで称えたらいいのか。
称える心構えについて浄土門の中で色々別れて説かれている。例えば一辺でも余計に数多く念仏せよとか、信心こそ大切で、信心の裏付けのないお念仏は駄目とか、その他色々説かれている。
時宗のお念仏を称える心構えは、素直なありのままの気持ちで、行雲流水なにものにも拘束されない自然の念仏こそ最も尊く有難い念仏であると説かれている。
宗祖一遍上人が「南無阿弥陀仏と申すほか、さらに用心とてはない。地獄をおそれる心も捨て、極楽を願う心も捨て、証も捨て、一切のことを捨てて、ただお念仏を申したらいいのですよ」と仰せられている如く、自分がお念仏を申すその功徳によって往生しようと思うのも、どうしても信心がおこらぬと嘆くのも、全て心の迷いになるだけでなく、それだけ名號の功徳を損じるのである。
こういう道理も分かり難ければ分からないままでよい。分かって申すお念仏も分からないまま申すお念仏も、お念仏の功徳にかわりはない。ただ口にまかせて素直にお念仏を申せばよいのである。
こころ(南無阿弥陀仏の意義)をば いかなるものと 知らねども
な(六字名號)をとなふれば ほとけにぞなる
要するに、ただただ南無阿弥陀仏が根本である。
その称名念仏生活の助けとして、歓びと感謝の意を込めて阿弥陀仏を礼拝し、祖先を敬い祀り、お寺に詣で法話を聞き、日常生活に於いては規律を守り、一日一善を励み、自他ともに平和で楽しい生活を送るように心掛けることである。
「時宗 荘厳寺」執筆者 荘厳寺33世 河野正雄師