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時宗荘厳寺

 

 

 

時宗荘厳寺は、応永12年(1405)遊行11代自空上人の弟子義縁和尚の創建です。

かつては、高辻の北側・油小路堀川の間・東西72間・南北45間半(明治初年以来の明細書)あり、高辻道場佛光山荘厳寺と呼びました。同時に法性寺中将親信を始め、諸人の寄進により数多くの寺領を有していました。

 

応仁元年5月兵火にかかり焼失。文明年間に再建されますが、天正19年(1591)豊臣秀吉の命により現在地に移り、西院に御朱印高二石を領しました。

その後、次第に衰退荒廃甚だしくなり、一時は無住のような状態になりました。

 

然るところ、明暦元年(1655)遊行39代上人がこの地に遊行された折りに、圭堂和尚が当寺の第18代住職を拝命し、努力精進を重ねて一宇を建立して中興し、次いで第19代證堂和尚が更に整備に力を注いで漸く寺院の基礎が確立しました。

 

しかし、天明8年・天保11年・安政5年・元治元年、度重なる火災により古記録を失いました。

明治3年以降、滋賀県某郷士から譲り受けた家を庫裡とし、滋賀県某宮家から譲り受けた御殿を本堂に再建し、整備復興を重ね、現在に至ります。

御参拝の折りにはご本堂の屋根をご覧ください。御殿風の饅頭型です。

 

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時宗の宗祖一遍上人のご先祖は、第7代孝霊天皇第二皇子伊豫親王といわれ、父は伊豫の領主河野通廣です。一遍上人は延應元年(1239)2月15日に生誕せられました。10歳にして母を失い、父の命により出家されます。隨縁と名を改め、13歳にして聖達上人の弟子となり、更に華臺上人(聖達上人の法兄)の許にて名を智眞と改め浄土宗西山派の奥義を究められました。

25歳にして父を失い一旦故郷に帰られます。それから8年間の記録はありません。おそらく武門の河野家に於いて、俗人の生活をせられたものと思われます。

ある日、子供たちがコマ遊びをしていた時、コマが落ちて止まったのをご覧になって、われわれが六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上。6つの迷いの世界)をぐるぐる廻っているのと同じで、コマが止まったように六道輪廻から早く抜け出さねばならぬと悟られて、33歳にして再び聖達上人の許に戻って勉強されました。

 

文永8年(1271)春、信濃善光寺に詣で、善導大師の描かれた二河白道の図を写し、同年秋、愛媛県窪寺の草庵にてこれを掲げて本尊とし、「水火の二河はわれらの心であり、中の白道は南無阿弥陀佛で、二河にも犯されないのは名號(みょうごう)である。名號の他にわれらの救われる道はない」と名號の真意を悟られ、更に岩屋観音の岩窟に籠って念仏三昧の修業の結果、衆生に名號念佛を勧めるため、野に伏し山を越えての念佛勧進の遊行の旅が始まったのです。時に文永11年(1274)2月8日のこと。

 

最初は超一・超二・念佛房の3人を随伴せられていたが、次第にお弟子になる人が増えて行きました。上人はこれらの人々を時衆(じしゅう)と呼ばれていました。

 

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九州から大阪へ廻られたとき、四天王寺で初めて「南無阿弥陀佛」のお礼の札を配られました。これを賦算(ふさん)といいます。続いて高野山を経て熊野に詣でられ、同じように賦算をされた折に、律宗の僧に「信心をおこして名號を称えてこの算(ふだ)を受け給え」と算を差し出されました。しかし僧は「只今信心がおこりません、それに受けたならば嘘になります」といって受けられませんでした。上人は止むを得ず「信心おこらなくても受け給え」と、その場は一応おさまりましたが、この信・不信の大難題解決を祈って熊野證誠殿に百ケ日参籠(さんろう)されました。

その満願の暁に、権現のお告げを受けられるのです。「あなたが勤めるから衆生が往生するのではない。阿弥陀佛が遠い昔に佛の位に就かれた時に一切衆生の往生は南無阿弥陀佛と決定しているのである。従って信ずる・信ぜない・清らかな心・汚れた心、そんなことは問題ではない。ただその算をくばって念佛を勤めよ」と。ここで初めて絶対他力の名號の真意を体得せられたのです。

 

これを高祖成道といい、その後の賦算を「南無阿弥陀佛決定往生六十万人」とし、自らを一遍と改められました。

 

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これより名実共に捨聖(すてひじり)としての念佛勧進の遊行(人呼んで遊行上人)が始まり、その足跡は東北より九州に至るまで概ね全国にわたり、衣食住を全て庶民の供養に任せ、ひたすら念佛遊行を事とし、その間16年、兵庫観音堂(現在真光寺)にて示寂されました。51歳でした。

病が重くなった時、「私の化導は私一代限りですよ。お釈迦様の説かれた教えは南無阿弥陀佛に尽きている」と仰って、ご所持の経典も記録類も一切、お念佛を称えながら焼き捨てられました。

かくの如く一遍上人の「わが化導は一代限り」との仰せを守って門人達は念佛勧進の遊行を打ち切り、丹生(とう)の山に入って念佛に専念されていましたが、麓の領主の再三の懇請により、賦算せられたのを機縁として、二祖他阿弥陀佛を知識として遊行が続けられることとなり、今に至っています。

宗祖上人は遊行の旅に終始し、寺を持たれることはなかったのですが、四祖呑海上人が、遊行を五祖に譲って自らは藤澤清浄光寺(現在本山)を開創して初代となられました。遊行上人のおられる寺というので、通称遊行寺と呼ばれています。

 

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一遍上人はただお念佛のみが根本で、その助業として阿弥陀経・六時礼讃等を勤めることを日課とせられました。六時礼讃とは、晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の6つの時に各時の礼讃を、節をつけて読誦するものです。礼讃とは、お念佛に関連したものを七言・五言で以て讃嘆する文のことをいいます。

この昼夜6時に阿弥陀佛を拝し、西方往生を歓ぶ集団を時衆と呼びました。その時衆が他の宗名と同様に時宗というようになったのは第14祖太空上人の時(1430年前後)からです。

かくの如く一遍上人時宗独自の勤行は念佛勤行に尽きるわけですが、当初のお師匠が浄土宗西山派聖達上人であったために、これも併せ修せられた関係上、現在に於いては西山派に準じた勤行を勤めています。

 

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遊行上人とは一遍上人のことであると共に、総本山遊行寺の歴代住職のことも示します。

遊行上人は以下のような特殊なお姿をされています。

1.頭巾・法衣・袈裟・白衣・足袋まですべて鼠色を着用されているのは、遊行のため衣の黒は色褪せ、白は汚れて鼠色となったもので、これを遊行鼠といいます。

2.お頭巾は皇族の頭巾であり、皇族ご出身の12代上人が着用されたのに始まります。

3.ご賦算箱を前に掛けておられます。

4.蕾の持蓮華(蓮華のように清浄なる念佛の行者であることを表わす)を持っていられます。

5.髭を剃られないのは、皇族出身の12代上人のお顔に剃刀をあてるのを畏れ多く思ったからであります。

 

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「時宗 荘厳寺」執筆者 荘厳寺33世 河野正雄師